3.11から14年。羽生結弦本人からのメッセージ。
そしてスポーツ報知の単独インタビューでショーへの取り組み方、そして仲間のスケーターらの心境の変化を語る。
史上初のコラボがどんな影響を与えた?羽生結弦は一体感が生まれたと語る
本日は3.11。東日本大震災から14年。
日付が変わると共に羽生結弦からのメッセージが、、、
2011年3月11日、14年前に負った傷は痛みがなくなることはなく、ずっとずっと残っています。
まだ癒えぬ土地もあります。
失ってしまったものは元には戻りません。
それでも、祈り続けます。
私にできることを模索し、続けていきます。
変わる景色も、変わらない記憶も、
大切にし続けます。…— 羽生結弦official_Staff 公式 (@YUZURUofficial_) March 10, 2025
昨日放送されたeveryの動画が公開に。
今日のevery です💫 #羽生結弦 #野村萬斎 #nottestellata https://t.co/4dIAQug0SS
— 東和薬品 presents 羽生結弦 notte stellata 2025【公式】 (@notte_2025) March 10, 2025
羽生結弦の単独インタビュー、ノッテ公演の映像も詳しく見ることができるわよ。
スポーツ報知では、昨日10日に仙台市内で行われた羽生結弦の独占インタビューを前・後編に分けて紹介に。
羽生結弦さん 受け入れ、背負うこと 東日本大震災から14年 単独インタビュー前編
震災発生当時、羽生さんは16歳だった。仙台市内のスケートリンクで被災した3月11日から14年になる。
「福島の方々も含め、いまだに傷痕が残っている地域というか、いまだに苦しんでいる方々、悲しい思いをされている方がいるということは、忘れないようにしたいと思っています。自分自身が被災者であるとは思うんですけど、それよりも、いまだに14年がたっても家に帰れないとか、家をどうしたらいいか分からないと言っている方々がいることは、やはり胸にとどめておきたいと思っています」
10代の頃、被災地代表のようにメディアに扱われることに葛藤もあった。14年ソチ、18年平昌で五輪連覇。背負うものも増えた。この14年、少しずつ受け止めながら歩んできた。
「一概にこうだったって言えるほど、そんなに順風満帆なものではないんですけど。でも一つずつ、14年間、ちょっとずつ、ちょっとずつ、受け入れるということを、ずっとしているような気はします。受け入れることと背負うということを、ずっとし続けている感じはします」
昨年9月には「能登半島復興支援チャリティー演技会」に出演し、収益金4387万8649円を全額寄付した。支援活動の根幹にあるものは何か。
「やはり僕が、いろんな方に応援してもらえたからだと思います」
12年3月の世界選手権(ニース)は初出場で銅メダルを獲得した。
「2011―12年シーズンの時に、葛藤はいろいろあったはあったんですけど、そのシーズンの最後の世界選手権で、どれほど応援の力というものが僕にかかっていたのかっていうことに改めて気づけて。その時から、僕はこんなに応援されているんだ、って思えたことが、逆に僕が応援したいんだって思えるきっかけになったんだと思うんですよね。被災地の人間として、こんなにも応援してもらえているからこそ、僕は被災地のこともより近場で感じられていたからこそ、より一層、僕自身が応援する立場になりたいなって思えていることが根幹だと思います」
東北の他に石川、熊本、北海道の被災地へも足を運んでいる。
「東日本大震災の時に、ボランティアで石川から来てくださった方々に対しての恩返しで、能登にボランティアに行ってくださっている方もいらっしゃいます。それと同じような気持ちもあります。やっぱり、たくさんの方々が3・11に対して、いろんな思いを抱いてくださって、応援をしてくださったからこそ、他の地域でいろんな災害が起きた時に、応援したいっていう気持ち、恩返しがしたいっていう気持ちは強いです」
これからも被災地への思いを胸に滑り続けていく。
「僕の演技の中に、それが含まれていないものって、もうないんだなっていうことは思っています。どんなプログラムをするにしても、(アイスストーリー『Echoes of Life』で演じた)“Utai”みたいなものだったとしても、常に何かしらの、魂への対話じゃないけど、祈りと、魂に寄り添うこと、何かの悲しみに寄り添うことは、ずっとしています」
※スポーツ報知より一部引用
羽生さんはプロ転向後、震災への思いを込めたアイスショー「notte stellata」を3年連続で宮城で開催。競技が最優先だった競技者時代と比べ、発信する機会が増えた。座長を務めるショーへの向き合い方にも変化があった。
「背負い方でいうと、1年目は重さで背負っていたというか。寄り添うとはどういうことかということにおいて、悲しみに近い寄り添い方をしました。でも2年目は、悲しみに寄り添えているからこそ逆に、自分が笑っていなきゃいけないよね、って思って頑張りました」
今年はスペシャルゲストに狂言師・野村萬斎(58)を迎えた。コラボ演目の一つが「ボレロ」。狂言とラヴェルの舞踏音楽を融合させた「MANSAIボレロ」は震災が起きた11年が初演で、「鎮魂」と「再生」が込められている。
「(今年の)3年目はもう、ほとんど神事だったので。魂の方に寄り添うということと、祈りというものに対しては、かなり強くなりました。背負い方と向き合い方と受け入れ方が、変化していると思います」
9人のスケーターと、あこがれの人と、3度目のショーをつくり上げた。
「萬斎さんがいたからそこまで締まったっていうのは、もちろんあるとは思うんですよ。仲間たちが『やんなきゃね』って思ったというのもあると思うんです。萬斎さんという存在が会場でのリハーサルで(演目を)通したときに、僕らは初めて『MANSAIボレロ』というものを一番近い場所で見て。祈りというか、滑る時の覚悟みたいなものが、一段階上がったような気はしました」
ショーは9日に千秋楽を終えた。同じ熱量を注いでくれた、仲間の存在に感謝した。
「僕は、スケートとか、表現とか、このような震災のことに関しては特に、すごく力を入れています。魂から滑り切りたいっていう思いが強くあります。それを今回のメンバーが一緒にやってくれたことが、すごくうれしかったんです。魂ごと、全精力を注いで、ものをつくってくれる、何かを表現してくれる、パフォーマンスをしてくれる。それを今回みんながしてくれたことが本当にうれしかったし、より一体感が生まれて良かったなって、思っているところです」
※スポーツ報知より一部引用
インタビューの中でも、3年目となるノッテ公演までに心境・心構えの変化などがあって、
今年は仲間のスケーター達へも「魂のスケート」が伝播しているなということも、各スケーターの発信からも感じ取れるわよね。
野村萬斎氏を特別ゲストに迎えたのは、史上初のスケートと狂言のコラボというだけでなく、「滑る時の覚悟みたいなものが、一段階上がった」というように、
チームに一体感がより生まれ、皆が同じ方向を向いている。ショーへの向き合い方、表現に魂を込めるという点などについても良い影響をもたらしているのだなと。
それでは皆様、本日もどうか素敵な一日をお過ごしくださいね。
現在「X」で不具合が度々生じておりますが、皆様復旧しましたでしょうか?
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愛のオネエサロン
オネエ様、こんにちは。まだまだ余韻が取れなくて困っています。ボレロの曲が頭の中を駆け巡っています。一緒にコラボしてくださったスケーターさん達の演技も本当に良かったです。黒い衣装で揃えられていて、メインの二人が際立つ美しさ、でもそれは周りのスケーターによる力もあったんだなあと、しみじみ思いました。
このお仲間たち、何より元気に集結してくださったことが嬉しいです。体調不良とか一人ぐらい起きても仕方ないものですが、流石にプロを名乗るだけあって、ステージに穴をあけるようなスケーターはいないということでしょうか。これも凄いことですね。
以前、福岡で行われた怪しげなショーでは、数名のスケーターが体調不良とかで脱落したことがありました。健康を維持してきちんと契約に応えることは、簡単なようで難しいことだろうなと改めて思いました。この場合は、スケーターさんが悪いのではなく、環境が悪かったようですが。羽生選手のショーは超一流ですから、ホテルや食事なども万全を期していらっしゃることでしょう。出演の皆さんは安心ですね。
羽生選手のお仲間の皆様、本当に有難うって言いたいです。