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もしや幻のショー特番が!?羽生結弦らが挑んだフィギュア王国"危機再生"

仙台放送による『“フィギュア王国”の危機と再生 仙台・氷の物語』。

フィギュア王国が再生していく過程で、リンクを守ろうとした人たちの情熱と夢をつないできた羽生結弦らスケーターの弛まない努力。

60秒間の映像使用制限がなければ、仙台放送はショー終了後に特番を組んでいたのかもしれないわね。
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もしや幻のショー特番が!?羽生結弦らが挑んだフィギュア王国”危機再生”


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少年・羽生結弦「これから俺のスケートはどうなるんだろう」“フィギュア王国”の危機と再生 仙台・氷の物語

羽生結弦の“原点”には知られざる苦闘と絆があった

フィギュアスケートといえば羽生結弦。そう思う人も多いだろう。

しかし、羽生を生んだ宮城・仙台には、もっと長いスケートの物語がある。発祥の地と呼ばれる仙台は、一度“王国”と呼ばれるまでに隆盛し、そして危機に直面し、それでもなお未来をつなごうとする人々の記憶と情熱に支えられている。

少年・羽生結弦が見た絶望と希望の光

羽生がスケートを始めたのは4歳のとき。だが、競技として本格的に取り組みはじめ、いよいよ全国大会にも出場し始めた矢先、羽生が練習を積んできたリンクが突如閉鎖された。

「これから俺のスケートはどうなっていくんだろうって思いました」

当時11歳の羽生が、仙台放送の取材にそう語っている。リンクを失い、道を見失いかけた少年時代。そんな彼を支えたのは、リンク再開に向けた大人たちの情熱だった。

リンク再開に動いた“異色の県職員”と民間の力

リンク再開の裏には、一人の宮城県職員の存在があった。名を宍戸秀一。もともと土木課などスポーツとは無縁の部署に所属していたが、リンク閉鎖の1年後、県のスポーツ振興課に異動となる。

「辞めるつもりで頑張ってこい」と背中を押したのは、当時の村井知事だったという。

スケートの知識はほぼゼロ。ショートプログラムとフリーの違いすら知らないところからのスタートだった。しかし宍戸は、リンク復活への署名活動を行う子供たちの願いに心を動かされ、行動に出る。

民間企業との連携に活路を見出し、宍戸は全国でリンク経営の実績を持つ東京都の「加藤商会」に直談判を試みた。当時専務だった加藤松彦氏は、最初は「経営が成り立つわけがない」と断るつもりだったという。

加藤商会 加藤松彦社長(2014年取材当時):
「なのに、どうしてこんなに熱意をもってリンクのことを語るのか。それが心に刺さったんです」

リンクの再開には、初期費用1億5000万円に加え、年間7000万円の運営費が必要とされた。だが、「第二の荒川静香を」「子供たちに夢を」という情熱が、企業をも動かした。

2007年、閉鎖から2年の歳月を経て、アイスリンク仙台は再オープンを果たす。企業広告が並ぶリンクには、県民の“夢の続き”が広がっていた。

メダルに託した感謝 羽生がつないだスケートの灯

再開されたリンクで、当時小学6年生だった羽生結弦が滑っていた。
そして、その8年後。羽生はソチ五輪で日本男子フィギュアスケート界初の金メダルを手にする。

その凱旋の場で、彼はある人物の胸に金メダルをかけた。宍戸秀一である。

「ありがとうございました」

そう言ってメダルをかけた羽生の姿に、宍戸は言葉を失ったという。かつて「無理だ」と言われたリンク再開。その先に立っていたのは、あのときリンクを失いかけた少年だった。

元宮城県職員 宍戸秀一(2014年取材当時):
「道を開くためにはまず歩まねばならない。みんなの協力があって、このリンクも存在している」

宍戸のこの言葉が、すべてを物語っていた。

イナバウアーに込めた 羽生の想い

羽生はその後の演技で、 “イナバウアー”を必ずプログラムに入れ続けている。得点に直結する技ではない。しかしそれは、リンクと人々への“感謝”のメッセージだと彼は語っていた。

仙台で生まれ、日本のフィギュアを支えてきた数々の物語。
そこには、リンクを守ろうとした人たちの汗と、夢をつなごうとした選手たちの歩みがあった。

その灯は、今も“始まりの氷”の上に、静かに、確かに灯り続けている。

仙台放送

FNNプライムオンラインより一部引用

仙台放送による、“フィギュア王国”の危機と再生 仙台・氷の物語。

フィギュア王国が再生していく過程で、リンクを守ろうとした人たちの情熱と夢をつないできた羽生結弦らスケーターの弛まない努力。

記事の最後に“始まりの氷”と記しており、「The First Skate」の取材レポでも同様の表現をしていることから、

もしかしたら仙台放送はショー終了後に特番を組んでいたのかもしれないわね。

だからこそ、今こうして文字で届けたい。
あのリンクの上にあった情熱も、躍動も、笑顔も、言葉も、決して“1分”では語りきれない。

けれども仙台市から60秒間の映像使用制限があり、ずっと絶やさずに来た「灯」が新たなスケートリンクオープンと共にさらに強くなっていく物語を伝えきれないと断念したのでは!?

願うことなら、ぜひこの素晴らしい物語を特番映像で見てみたいわよね、、、

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羽生結弦から津波被害を心配するメッセージ

羽生結弦「Echoes of Life」でNovaをイメージし、「First Pulse」の楽曲を作ってくださった作編曲家・平松建治氏から

プロ転向3周年のお祝いメッセージが!

皆様、津波警報が太平洋沿岸に出ておりますが大丈夫でしょうか!?

わたしは今名古屋に来ており、東海道新幹線は通常通り運行しておりますが、東海道線は熱海~豊橋間で運転を見合わせているそうです(7/30 12時半現在)。

先程気象庁の1回目の会見をTVで見ていましたが、朝日の女性記者が「海外の地震での津波警報はいつ以来でしょう?」 「国内の地震では?」 「カムチャツカとの距離は?」

と今回の津波と全く関係のない質問を嫌味ったらしく聞いていて、そんなの自分で調べなさいよ!と思ったわ。津波警報が出ていて、今の情報が知りたいのに。

今後もニュース速報はこまめにチェックして、外は暑いので熱中症などにもくれぐれも気をつけてくださいね。

☆合わせてお読み頂きたい


突然の通達に騒然!羽生結弦出演ショーの取材裏で露呈した仙台市の判断ミス - 羽生結弦好きのオネエが語るフィギュアスケート

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オネエ

View Comments

  • オネエさま
    おはようございます!
    名古屋からは、無事帰れましたでしょうか?
    (まだ、お帰りの日ではなかったでしょうか)
    素敵な記事の紹介、ありがとうございます。ソチ当時はまだファンではなかったので、職員の方や、羽生さんとの話がこうして知れるのは嬉しいです。
    昨日は、有隣堂アトレ恵比寿に行ってきました。涼しい店内で、羽生さんの一角はオアシスのようでした。暑い日は、少しずつ書籍を読み進めて過ごそうかな、と思っています。

  • オネエ様おはよう御座います。昨日の津波警報には吃驚しました。多くの人が東日本大震災を想い出したのではないでしょか?羽生さんもいち早くメッセージを出しましたね。警報もやっとで注意報に切り替わりました。オネエ様は名古屋に滞在だったのですね。帰宅するときは気を付けて下さい。仙台放送が良記事を出していますね。こけら落としの特集の放送はきっと企画して放送するつもりだったのですよ。それが配信があるからと60秒でと仙台市からの通達
    テレビ局側は考え直して欲しいと
    仙台市へ掛け合ったそうですが駄目だったそうですね。しかしテレビで放送したからと言って配信を見ないという方はまずいないに等しいと思います。仙台市民でもチケットが取れなかった人が沢山います。放送すれば必ず見ます。そして又配信で見ようと思うはず。仙台市は羽生さんを観光アンバサダーに指名しているのですから羽生結弦の経済効果を分かっているのだと思っていましたがそうではないみたいですね。それこそ羽生結弦を見くびるなです。それにしても仙台アイスリンスの存続には1人の職員の方の尽力があったわけですね。オリンピック金メダルリストを2人も出しながらアイリンの存在は不安定でした。そして通年のアイスリンクはアイリンだけ
    何とか大きいアイスリンスをと。しかし復興支援が先だと言う宮城県側
    中々話しが進まないときゼビオ側からアイスリンスの話しを頂いて念願だった国際大会が開催できる基準のゼビオアリーナ仙台が誕生しました。フィギュアスケート発祥の地と言われる仙台
    やっとで整った環境。この下で又将来オリンピックの金メダルリストが誕生すると良いですね